久留米絣の歩み(創始者「井上伝」とその後)

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inoue_den1788年12月29日、久留米藩の城下・通外町に、久留米絣を創始する井上伝(いのうえでん)が生まれました。父は米屋を営んでいましたが、決して豊かではなかったようです。

伝は7~8歳(現在の小学校1~2年生)のころから、木綿織りの稽古を始めました。その後も寺子屋に通っていたという記録はありませんが、小さい頃から縫い物が好きだったようで、師匠について本格的に織物や裁縫の勉強も始めたようです。

伝は12~13歳のころになると、大人も及ばないくらいに木綿織りが上達し、白木綿や縞を織り上げては売りに出していました。ある日、着古した藍染めに白い斑紋を見つけ、後の久留米絣の元になる技法をひらめきました。誰でも気が付いているにも関わらず何も感じない中で、自然の面白さへの疑問を解きほぐし、それを実践したのです。

一度で斑紋を織り上げるのは難しく、何度も試行錯誤を繰り返し、「霜降(しもふり)」「霰織(あらひおり)」と呼ばれるようになる白い斑紋の織物を完成しました。伝は「加寿利」と名付けて販売し、城下でたちまち評判となりました。15歳のころには、二十数人の弟子が集まったと言われています。

21歳の時に結婚し、城下原古賀町(現在の久留米市本町)で「久留米原古賀織屋おでん 大極上御誂(だいごくじょうおめし) 」の証票を添付して久留米絣を売り出し、弟子の指導も続けていました。

次の目標である絵模様の絣を織り出すことに苦心していましたが、後に東洋のエジソンと言われた「からくり儀右衛門」田中久重の協力を得ます。15歳の久重は絣の板締め技法を考案し、それによって伝は絵模様も織り出すことに成功しました。

27歳の時、伝は夫の病死で3人の子どもを連れ、なじみ深い通外町に戻ります。生家の斜向いの小さな家で弟子の指導を続けますが、40歳のころには、弟子が1000人にも及び、3棟が並ぶ建物を建設しました。この頃はすでに伝習学校の域を越え、指導費用捻出のために、弟子の織り上げた久留米絣を販売していたと言われています。また、弟子の内、400人程が各地に散らばり、機業を開業しています。これによって絣は個人の趣味的生産から産業として形成され、久留米は絣の産地として確立しました。ここで、伝の絣は「阿伝(おでん)加寿利」という異名を持っていました。

伝は70歳前後のころには、有志の婦女子に絣の出張教授を要請されるようになり、孫のトモを同伴して各地に赴き、しばらく滞在して指導していました。

晩年を迎えても子女の指導にあたり、その教えを受けたものも数千人を数えました。

絵絣の発明者・大塚太蔵は1806年に久留米市津福本町に農家の子どもとして生まれましたが、25歳のとき参勤交代の要員として江戸入りします。そのときに学んだ書画を生かし、34歳のときに絵絣の技法を考案し、現在に至っています。

また、小絣の創製者・牛島ノシは1812年に八女市福島の農家の次女として生まれました。ある日、ノシは長年放置された編み薦(こも)を参考に、緻密な小絣を考案しました。この技術は村の婦女子に請われるまま伝習して、広まっていきました。

多くの人々の創意工夫と努力で、久留米絣は技術の融合が図られ、現在のような高い評価を受けるまでに成長したのです。 また、こうした久留米絣の技術の確立と共に、国武喜次郎や本村庄平など多くの商人の手によって、全国に広められていきました。

主な参考文献
・「玖留見」12号
企画・発行;久留米市広報課
・ 久留米絣200年のあゆみ
発行;久留米絣200年祭実行委員会
・ 久留米郷土研究会誌
第23号

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